私事ですが、この春に娘が生まれました。
三月生まれの彼女のために父親として枕元にはじめて捧げた花が、ここに写っているチューリップたちです。
淡いピンクのごく普通のチューリップです。
この花たちは、自宅の居間の窓から入る自然光のみで撮影されています。
背景は、後ろに黒い幕を垂らすことによって消しています。
そうすることによって、花(華)という文字が意味する光や輝き、という存在の波動のみを闇のうちにとらえ定着させることができると思ったからです。
窓からの光はある時は強く硬く花を照らしだし、ある時は弱く柔らかくその繊細な細部を描いていました。はじめは少しのつもりでファインダーをのぞいてみたのですが、結局花の美しさに惹かれて何本ものフィルムに露光することになっていました。
微妙な視点の変化で同じ花のものとは思われないほど表情のかわる花弁の質感や、光線の差し込む角度によって内部の層を生き生きと透かしだされる茎の肉感に酔い、娘の寝息を聞きながら、時には見守る妻と視線を交わしながら、幸せな時間を過ごしたのです。
最初に出来た写真は、十五枚ほどを六つ切りに伸ばして部屋に飾っておきました。一月くらいの間普段よく目に留まるようにしておいたのですが、なかなか良い出来だったので気を良くした僕は再びチューリップを手に入れようと思い立ちました。でも、この町のどの花屋さんにも見当たりません。
二つ隣の大きな町まで探しにでかけ殆どあきらめかけていたところ、やっと五軒目の片隅にカビが生え花弁も落ちかけて処分を待っている二十本ほどの花束を見つけることができました。あまりに嬉しくて、少しふるえてしまいました。収録の後半は、そのときの花です。
美しいかたちや華やかな色気も、緩やかに迎える死とともに潤いや勢いを失い、変化していきます。
当然のことかもしれませんが、もう既に娘の美しいチューリップたちはこの部屋から消えてしまっています。見ることも触れることも香りをかぐこともできません。しかし僕には、たとえば一片の花弁を失うごとにますます凄みを増し、あるいは狂気を帯びたかのように変わりゆく妖しげな花の生気それ自身が自らのかげをありのままに写し出していったかに思われました。
チューリップたちは時間につれて肉体を削り無くなっていく過程で、そのいのちを写真という別なかたちにうつしていったのかも知れません。
こうしてみると、いのちというものはただ単に活動する肉体のみに与えられたものではなく、僕たちの美しいと感じる気もちや愛しいと思う心が、この世のあらゆる存在にいのちを宿らせるともいえるのではないでしょうか。
ですから僕はこれからも、純粋に好きだから、美しいから、大切だからといった理由でとられる愛すべき写真との出合いを続けながら、生きていきたいと思っているのです。
1998年6月18日
西村陽一郎