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 私は今、東京から電車で西に1時間程離れた、海沿いの町に住んでいます。
 裏山には、季節になるとウグイスやホトトギス、アオバズクなどの野鳥が渡って来たり、数種の猛禽類が巣作りしたする林があります。春の谷戸は、山桜やヤマブキ、スミレに彩られ、夏には蝉時雨の下、クサギの蜜を求めて舞う暖地性のアゲハチョウ達の姿が、数多く見られます。森の木の実に飽き足らず、民家の庭に実るミカンを白昼堂々失敬しにくるリス達は古株の住人で、深夜や早朝、徘徊するアライグマやハクビシンと遭遇して驚くこともあります。
 
 そんな中、私が毎年特に心待ちにしているのは、近所の川辺に初夏の数週間だけ発生するゲンジボタルです。夕暮れから見に出かけ、川面や暗がりの草葉の上に、静かに、規則的に明滅するあの黄緑色の光を発見する度、私の心は震えます。それを手に取り、虫のか弱さと光の神々しさとを目の当たりにする時、胸が締め付けられる程の感動を憶えます。光のあたった所から、じわーっと少しずつ浄化されてゆく様な気さえしてきます。今回の展覧会には、そのホタルの光を使ったフォトグラム作品を展示しています。
 
 昨年の初夏、私は手のうちに飛び込んだ一匹を暗室へと連れ帰り、その光を写真用のモノクロフィルムに直接焼き付けました。蛍は暗闇の中でどこかへ行ってしまわない様にガラスのコップに入れているので、そのガラスの影も同時に写し出されています。蛍が輝きながら動いた跡は光の帯となり、そこに蛍自身の体の一部分が影を落とす事もあります。私の出来る事は、その明滅が静かに闇を遠ざけたり近づけたりするのを、側で見守っている事くらいです。蛍は一枚の写真のなかに、光であると同時に影としても存在しながら、生命の時空を描き出しています。

 夢中で蛍と共にすごした数時間でしたが、蛍は成虫になると水しか飲まず数日しか生きられないと聞いていたので、一段落した所で生まれ育った元の川辺へと帰しに行きました。移動用のフィルムケースの中で眠ってしまったかのようにじっと動かずにいた蛍は、水のにおいを嗅いだのか、川の霊気を感じたのか、深夜の川縁へと差し出された私の掌の上でもぞもぞと足先を動かしたかと思うと、数回強く発光した後、音も無く暗闇の向うへと飛び立って行きました。それまで遠く微かに灯っているだけだった仲間達の光が、一瞬共鳴したように、強く明滅したのが印象的でした。
                   

 2005年6月「発光」展
西村陽一郎

 

 

  

 蛍が自ら発光する小さな光でフィルムを感光することが出来るのだろうか?
 夏休みの自由研究にも似た素朴な疑問を持った西村は、ある晩一匹の蛍を暗室に持ち帰り、4×5インチフィルムの上にそっと放してみた。しばらくの間、蛍はフィルム上を動き回りながら暗室の中で小さな明かりを灯していた。その明滅による光と影だけで制作されたモノクロームの美しいプリントを見ていると傍らでその様子を静かに観察していた西村の胸の高鳴りが今にも聞こえてくるようだ。
 

ルーニィ代表 篠原俊之
                                                  

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